意識のアップデート

東洋経済というビジネス雑誌に「東大に『トイレの研究』で推薦合格、変わる大学入試で重視されるのは個性」という記事が掲載されました。

「一般選抜よりも推薦で大学に入る割合が急増」というサブタイトルが付いています。

過渡期なのでやむを得ないといえばやむを得ないのですが、私たちの意識がアップデートされていない現実に焦りを感じています。

「大学入試が変わらないと、日本の入試は変わらない!」
と訴えてきた作文虎の穴ですが、ここにご紹介したように現実には『トイレの研究』で東大に受かる生徒が出てきていたり、東北大学がテストの点数の高い順に合格させるという従来の入試方法を全廃するという意向を表明したりするように変化してきました。

現在の課題はむしろ、「大学入試は変わりつつあるのに、国民の意識がついていけてない」という現実が顕在化してきているということだと思います。

 

高校にせよ、中学にせよ、ペーパーテストによって割り出された偏差値によって「この偏差値ならこの高校は受からない。こっちの高校に志望校の変更を」といった、偏差値による振り分けのことを進路指導と呼ぶ現実は何も変わっていないようです。

この偏差値信仰は、大学入試で終わらず、就職試験にまでついてきます。
表向きそういうことはしていない、と言っていますが就活生からは「学校名によるフィルタリングが行われているのでは?」という指摘が引きも切りません。
企業には、こういう人材が欲しい、という明確な採用ビジョンがあるはずなのですが、それは「偏差値がこれくらいい以上の学生の中で、こういう人が欲しい」となっています。

つまり、日本社会は上から下まで、小学校から会社までが偏差値を至上の価値として、その枠内で採用を行なっている状態だと言えると思います。
われわれの意識が「人間の素晴らしさは、テストで測れる」という神話を信じていることを意味しています。

テストで測れるのは、記憶力や知識の再現力、インプットの効率性、アウトプットの正確性などにすぎません。
もちろん、「それらは素晴らしい能力ですが、素晴らしさの全てではない」と意識をアップデートしていく必要があると思います。

私たちは、詰め込みの過程で多くのものを失っているのかもしれないという視点。

例えば、面白がる力や、常識を疑う視点、人を巻き込む力、人を説得する力などを育む機会を失っているのではないかと考える視点が必要なのだと思います。

「大学入試が変わらないと日本は変わらない」
と叫び続けてきましたが、大学入試は変わって来ています。
今度は、私たちがそれに沿って、優秀さの基準を早急に変えていく番なのだと思います。

https://toyokeizai.net/articles/-/737664?utm_campaign=ADict-edu&utm_source=adTKmail&utm_medium=email&utm_content=20240323